香港映画の巨星とリスペクトされているブルース・リーの47回目の命日が、もう間もなくの7月20日(1973年没)にやってきます。
アメリカ・香港で先行公開され(というか、当時の日本国内では香港スターのブルース・リーの存在を知っていたのは僅かだと思います)日本国内での公開はアメリカでの大ヒットを受けてのものでしたが、香港での公開日にはすでに亡くなっていたので日本での公開時にも当時はよくあったプロモーション来日もなく慣例的に考えればヒットしないはずの作品だったと思いますが、それを大ヒットさせたのですからブルース・リーがもしも生きていたら、どれだけの観客を呼べたのかというぐらいの話だったと思います。
日本にカンフー映画というジャンルがあることを知らしめ、アジア系映画などマニアックな存在だったのに、この映画が公開された後では映画の中で拳法が使われていれば出演者のプロフィールなど関係なしという感じで、香港、台湾など中国拳法の登場する映画は良品からキワモノまでなんでもありでした。
結果として当時に出てきた香港映画の中で、そこそこのヒットをしたのは王羽(ワンユー:ジミー・ウォング)の「片腕ドラゴン」ぐらいで、その他の作品は枕を並べて討ち死にという感じでしたから、結局はカンフー映画がウケたというよりはブルース・リーの魅力が大きかったことを証明しています。
そんなブルース・リーが日本でもスターとして認められたのが亡くなった後ということですから残念としか言いようがない訳ですが、映画の中で屈強な男達にしなやかな体で蹴りを繰り出す筋肉質の若者が、何故32歳で亡くなったのか。
当時の香港では愛人の家で昏倒したことから腹上死説まで出たほか薬物中毒説脳腫瘍の破裂説など、いろいろなスキャンダラスな死因が報道されて大騒ぎになりましたが、直接的な死因は脳浮腫によって、脳の容積が10%以上も増えたために脳幹(脳の中で生死に関わるもっとも重要な部分)が圧迫されたために死に至ったということで検視報告が出ています。
現代医学ならば頭蓋骨を外して人工的な昏睡状態にして生命維持をしながら脳の腫れを抑えることが出来たかも知れませんが約50年前のことですから当時の対応では難しかったのでしょう。
脳浮腫の原因はアスピリン系の頭痛薬と継続的に使っていた鎮痛剤の相乗効果とされていますが原因までは特定されていません。
当時の実際の告別式の様子が「死亡遊戯」の中で、映画の中のビリー・ローの葬儀の場面として使用されていて、亡くなったブルース・リーのデスマスクを見ることが出来ますが、亡くなった当時の香港での人気の高さがあったがために記録として撮影されていた葬式の様子が死後の映画出演に結びつきました。
ブルース・リーの遺作に個人的にランキングを付けるとしたら。
1位 「ドラゴンへの道」
1位は「燃えよドラゴン」と言いたいところですが、監督としてローマの風景を盗撮(ローマロケの予算がなかったので少人数でローマに行き、市街の様子とコロッセオの撮影をして、撮影した写真をスタジオで引き伸ばしてローマの雰囲気を演出)したその努力に敬意を表して「ドラゴンへの道」で★★★★★
2位 「燃えよドラゴン」
同じく★★★★★
3位 「死亡遊戯」
3位は戦いのシーン以外は全て別俳優の吹き替えと過去の作品を繋ぎ合わせたドラマでしたが戦いのシーンだけで満足した「死亡遊戯」★★★★
4位 「ドラゴン怒りの鉄拳」
4位はラストシーンが印象的な「ドラゴン怒りの鉄拳」★★★
5位 「ドラゴン危機一髪」
5位は主演デビュー作の「ドラゴン危機一髪」★★★
この映画は殴り飛ばされた人が壁を突き破って飛んでいき壁に人型の穴が開くという子供番組のような場面があって、ちょっと興覚めなので最下位です。
亡くなった後は家族はシアトルに移住し、香港に所有していた駐車場が数台分ある広大な家は売りに出され、一時期はラブホテルとして経営されていましたが現在は香港のファンクラブが買い戻して記念館になっているはずです。
※香港も民主化の流れが止められて懸念されていたように中国の一国二制度の約束事は有名無実化しているので現在はどうなっているかわかりません。
香港の港を望める場所にブルース・リーの銅像が立っているので、いつか絶対に見に行きたいと思っていましたが、ブルース・リーが活躍していた頃の香港から中国の一部の香港になったことで、その気持ちも揺らいでいます。
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